“風景とその認識の枠組み -近代からはずれるということ-” への12件の返信

  1. 温井先生

    ご無沙汰しております。大阪府大の武田です。

    発表内容を興味深く拝見いたしました。武田がきちんと理解できているか甚だ自信がありませんが、風景の認識を科学以外の認識に拠ろうとする姿勢には共感いたしました。
    まったく想定された状況は違うかと思いますが、コロナ禍での自粛生活によって、市場経済によるグローバル化とはまったく異なる視界から、風景の意味を求めることが切実に感じられるような状況になっているのではないかと思います。

    そのひとつの視座として、セザンヌの「自然に見つめられる」という体験を通じて、しかも最終的には自然を描く、という一連の行為はとても興味深く思いました。
    さらに、それが囲繞景観ではなく、眺望景観を対象としている点が興味深いと言いますか、不思議に思いました。
    この場合の眺望景観とは、囲繞景観以外のすべての景観、というような意味合いなのでしょうか?これまでの認識においては、眺望景観はもちろん主体が眺望する景観だったと思いますので、この意味がより明確に理解できれば、セザンヌの風景認識がより理解できるのかと思いました。

    単に私の認識が不足しているだけかと思いますが、眺望景観の捉え方について、可能でしたらもう少しかみ砕いてコメントいただけましたら大変幸いです。

    1.  武田先生コメントありがとうございます。ご指摘いただいた点は私の関心とも交錯する所と思うのですが、その答えは小林秀雄から引用した2カ所を読んでいただけると分かるのではと思います。それは自分が風景を見るのではなく、逆に風景に見つめられる、そういう感覚の強度を感じるところを探し、そこで描くのだという話です。ここで小林が想定しているのは、サント・ヴィクトワール山などの風景画で、それは眺望景観と言ってよいと思います。ただし、ガスケが書いていることですが、前景に松を描いているサント・ヴィクトワール山の絵に対して、松の青い香り(太陽の下で鼻をさすような匂い)、毎朝の涼しげな草原の匂いや石の匂いを表現しなくてはいけないとセザンヌが言ったそうです。これは塩田先生の景観認識モデルで言う囲繞景観に当たると思われます。ただ、遠くのサント・ヴィクトワール山の大理石の香りとひとつにならなければいけないとも言ったそうですから、これは塩田モデルの眺望景観に当たり、塩田先生が視覚によって捉えられる眺望景観と、五感によって捉えられる囲繞景観を区別したのと違って、セザンヌは両者から視覚以外の匂いを感じるよう描かなければならないと言っていることになります。

  2. 専修大学の小林です。
     近代から外れるという視点は興味深く、内容を拝見させていただきました。御趣旨を理解するには至っていないのですが、気づいた点をコメントさせていただきます。風景の認識についてスライド7十8で示された内容の中で、
    セザンヌが自然は表面にはない 感覚を実現すること。 
    デカルト批判 物体として客体を指定。
    というご指摘から、近代科学における自然に対する認識論におけるアリストテレスに対するデカルトの批判(下記)を思い出しました。 
    アリストテレスの存在論と認識論の排除:
    アリストテレスの経験論的認識とは、「知性は、まず感覚対象から形相を受け取り、それが創造力において表象への変容したものを思考するという仕方でのみ働く*」
     デカルト 「心身二元論」と「生得説」*
     「省察」1641(45歳)   「私は考える、それゆえ私はある」*
     「私の思考」というのは「感覚」や『想像力』とは独立に働き存在する*
     物質的事物の本質の認識が、感覚や想像力によってなされるのではなく、
    人間知性のうちに与えられており、数学的対象によってなされる。

    1. 小林先生

       コメントありがとうございました。
       哲学を研究しているわけでもなく、セザンヌについてメルロ=ポンティが言っている事だけで止めたかったのですが、メルロ=ポンティがセザンヌに関心を持つ所以がデカルトによる心身二元論の批判にあるのでデカルト批判を口にせざるを得ず、結局「はじめに」と「まとめ」にもそれを据え、タイトルにも近代批判を持ってこないと論として組み立てられないと断念することになりました。
       というわけで、原稿投稿前後からあわてて本棚に眠っていた『方法序説』を中学か高校以来読み返し、小林先生のコメントに『省察』とあったので、これも急遽、大学図書館にあった三木清訳の岩波文庫の『省察』をざっと読んだ次第です。さて、全くの初心者としてデカルトを読もうとしてみると、そもそも読むべき(というより、これ以上読めなかったでしょうから、手元に取り寄せ眺めておくべきでしょうか)著作が手に入らないということが分かりました。「眼と精神」には屈折光学という章があり、デカルトの書いた「屈折光学」を批判しているのですが、これを読むには白水社のデカルト著作集を手に入れるしかなく、これを蔵書している県内の図書館は山形県立図書館と山形大学図書館だけで、ともに新型コロナで貸し出し停止状態ですし、アマゾンで46000円で1冊見つけましたが購入は止めました。『方法序説』も正式な書名は『かれの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の序説、なおこの方法の試みなる屈折光学、気象学および幾何学』なのですね。『方法序説』はこの本の序文で、本論の中に「屈折光学」があるとは初めて知りました。また『省察』の方も、本来は省察一から六までの他に、「第二論駁と答弁」「第三論駁と答弁」「第四論駁と答弁」「第五論駁と答弁」「第六論駁と答弁」「第七論駁と答弁」というものがあるようですが、それらを読むにはやはりデカルト著作集を読むしかないようです。こうしてみると、あれだけ重要で有名なデカルトですが、ちゃんと読まれていないし、翻訳も出回っていないことに驚きます。
       さて、小林先生が挙げられたデカルト哲学の特徴は、感性や想像力をテーマとした拙論に対してたいへん重要な論点を列挙いただいたと思いまして、にわか勉強ではありますが、考えたことを述べたいと思います。まず小林先生は、デカルト以前のアリストテレス・スコラ哲学の認識論では感覚が重要不可欠な役割を果たしていることを指摘しています。それに対してデカルトは、一切を疑うという姿勢から確実に真である根拠としての第一原理で感覚を排除します。それは感覚は欺くことがあるというのが理由でした。そしてすべてに疑問を持って思惟しているというこのことは疑い得ないとして私の存在を導きますが、その私についてデカルトは、精神、心、知性、理性であると言います。ここで感覚を持った感性を備えた主体ではなく、思惟する主体としての精神、身体を持たない精神がまず据えられます。ここから生じる心身二元論が(身体を明らかにするのは省察六なのかもしれませんが、ここで決まってしまっているように感じるのは素人でしょうか)拙論と対立するわけです。さて、この点で興味深い反駁があることを知りました。第三論駁においてホッブズは、「私は思惟しつつある。ゆえに私は思惟である」ということになり、それはおかしい、成り立たないのではないかと言っているようです。また、思惟の定義についてデカルトは、幾何学の形で書かれた諸根拠の冒頭、定義1で次のように言っています。「思惟(cogitatio)という語によって私は、我々がそれを直接に意識しているというふうに我々のうちにあるあらゆるものを包括する。かくして意思、悟性、想像力、及び感覚のすべての働きは、思惟である。」こうなると、第一原理のコギトの思惟するには感覚も含まれるともとれますが、ここでは悟性の働きだけを言うのでしょうね。素人が思いついただけですので、取るに足らないことなのでしょうが。
       デカルトは第一原理を展開するにあたり、いきなり神の完全性を持ち出してくるので面食らうわけですが、そこでこの神の観念は人間にとって生得的であるという事が出てきます。神と言われても困る所がありますが、デカルトが完全性について三角形の内角の和が二直角であるという例を挙げたりしているのを読むと、デカルトの神とは数学、幾何学のような完全な存在で、それは生得的に我々のもとにあり我々の世界にあてはまるものと解釈できるかなと思われてきます。実際デカルトは次のように言っています。「定義8:この上なく完全であると我々が理解し、そしてそのうちに何らかの欠損あるいは完全性の制限を含む何ものも全く我々が理解しない実体は神(Deus)と呼ばれる。」ニュートンの運動方程式や、アインシュタインのE=mc2などは、このような信仰なくしては探求するということさえ起らなかっただろうと想像され、また実際に宇宙はそのような秩序を備えているのかも知れず、それはデカルト以来の知の在り方なのかも知れません。
       さて最後に、「私の思考」というのは「感覚」や『想像力』とは独立に働き存在する、ですが、これは絶対に真である第一原理と神の完全性から演繹的に他の物を証明していく方法論にとって、まず悟性が規定され、その後で感覚や想像力が規定されるので、必然的に独立したものとして考えられることになるということでしょうか。「感覚」については、欺くという特徴の他に、そこから悟性によって修正される必要があるとして二義的なものとされ、想像力についても、物体に向けられた認識作用であるとして、純粋な悟性作用に対して二義的なものと位置づけられていると解釈しました。

  3. 温井先生

    東京大学の町田です。

    大変興味深いご発表をありがとうございました。

    これまでの風景計画研究推進委員会で交わされた議論を再考し、
    これからの私たちの研究視座をお示しくださり大変勉強になりました

    セザンヌのサント・ヴィクトワール山の絵を通じて、
    自然の奥行き、深さ、感覚の実現している、セザンヌの「視る」を
    体験しました。

    セザンヌの「自然は深さにある」というとらえ方、
    「我々の資格=身体的なものであり共同主観的なものとであること」という
    風景のとらえ方は
    文化的景観などの本質的価値を読み解く上でも重要な視座と感じました。

    私の理解不足もあると思います。
    また色々と教えていただけたら幸いです。

    1. 町田先生
       今回はたいへんお世話になりました。改めて御礼申し上げます。
      さて、今回の企画の中心である町田先生なので、投稿意図について書くことで、企画担当のお礼とコメントへの回答(渡辺先生への返信で文化的景観については書きます)としたいと思います。
       拙稿は柄谷行人の「風景の発見」を学会の皆さんがどう捉えるのか、問題提起したいということに発しておりました。そこで哲学や絵画を扱うことになったわけですが、隣の分野である建築と比べたとき、ちょっと乱暴ですが次のように考えてみたいと思うのです。

      磯崎新という人の存在の有無。

       建築では、磯崎さんが現れて、建築を語る在り方が変わりました。それは言説だけでなくて、デザインも変わったと言えるでしょう。それは『建築の解体』で最初にはっきり発信されたように思います。1975年出版のこの本では、それまでの機能主義とは離れて違う文脈で語るという事が行われ、哲学や現代アートの中に建築を移し替えました。それを世界的な同世代の中でのそうした動きを集めて伝えて見せた。これを『美術手帳』への連載で行ったわけです。造園との絡みで言うと、その差が鮮明に表れたのはラ・ヴィレットのコンペで、造園が旧来の提案であったのに対し、1位2位に入ったのは建築のそうした流れをくむ提案でした。磯崎さん自身が審査員として選考をリードしたのかと想像されます。しかし、できあがった公園を訪れると全くつまらない作品であって、あの議論、プレゼは何であったのか、言説やプレゼに騙されたという気がします。そもそも我々の分野で哲学めいた話を横行させるのが良いのか悪いのか、考えてしまいます。そういう意味で、今回の投稿が悪しき前例にならないことを望むのですが、しかし柄谷の問題提起は興味深く重要で、これに対する感受性を持たないのもまずいかと思う次第です。
       学会後、庄内にもこれだけ本のそろった本屋があったかという本屋を見つけ、偶然あった柄谷の講演集をパラパラめくると、次のようなことが書いてありました。『隠喩としての建築』を書いたとき、磯崎新が興味を持ってくれ、アイゼンマンに言ったら英訳を出したいという事になり、また、彼らが企画していた建築家と哲学者の世界会議(Any会議というらしい)にメンバーとして招待されたというのです。磯崎さんは『建築の解体』に出てくる建築家たちとの交流の延長にそういう会をつくったのですね。そこで何年か世界の建築家と付き合ったが、自分が興味を持つ建築家は一人もいないと分かったと書いています。そこで分かったのは、自分が興味を持っているのは都市をどう創るかを考えている人であり、それはジェイコブズとアレキザンダーの2人だけだというのです。彼らには「建築への意思」があるというのですが、それは世界を秩序あるものとして組み立てようとする意志のことです。さて、造園にそうした人がいるか? オルムステッドはそうかも知れませんね。

      1. 町田先生

         文化的景観については渡辺先生への返信で合わせてお答えすると書きながら果たしておりませんでした。そこで改めて。簡単ではありますが。
         先生がおっしゃっているように文化的景観でもその本質的価値ということでしたら拙稿の議論も関係するかもしれません。ただ、制度としての文化的景観は、我が国の重要文化的景観にせよ、世界遺産にせよ、客観的な評価が求められるので結びつきがたいかと思われます。ところが、渡辺先生が紹介された1920年代のドイツの新地理学の相貌という概念、とくにその中のバンゼの主張は芸術的な見方、主観的な見方を大胆に取り入れていたそうで、主観的な見方、芸術的な見方を制度と結びつけることも在り得なくはないのかも知れません。ただバイゼの場合、民族や祖国と、そしてナチスと結びついたということで戦後は客観主義に戻り、タブーのようになっていたようです。山野先生のよれば、それをもう一度見直してみようという動きがあるようで、具体的なことは分かりませんが、そういう場面では拙稿で扱ったようなことが文化的景観の制度とも結びつく可能性が見えてくるのかも知れないなあと思った次第です。

  4. 温井先生

    ご多用のところご発表を頂きまして,有り難うございます。長崎大学の渡辺と申します。

    風景認識のあり方を再考されたご発表は,大変興味深く拝見させて頂きました。当方からのコメントは,以下の通りです。

    先生がご発表において提示されたセザンヌによる風景の捉え方は,1920,30年代のドイツの地理学の議論においてみられた「相貌」的な見方(審美的な観点からの主客未分化な見方にもとづく全体的な思考様式)に類似していると思いました。先生がご提案された捉え方と「相貌」的な見方との間には,違いがあるのか否かが気になりました。それに関連してこうした観点を風景計画に実装する場合には,どのような使い方があるのかも気になりました。
    参考文献:
    山野正彦(1998):ドイツ景観論の生成―フンボルトを中心に.古今書院(特に第8章).

    1. 渡辺貴史先生

       コメントありがとうございます。1920、30年代のドイツの地理学については全く知らなかったのですが、そこに「相貌」的な見方というものがあり、それが主客未分化な見方にもとづく全体的な思考様式だということにたいへん興味を覚えました。是非『ドイツ景観論の生成―フンボルトを中心に』を読んでお答えしたいところですが、探してみると山形県内の図書館で所蔵しているところが1つもなく、アマゾンで取り寄せても時間がかかって間に合わないようなので、今回はネットで探し当てた山野正彦さんの論考をもとに思ったところを少し書いてみたいと思います。
       ネットでは、「景観概念の生成と風景画および相貌学の発達-フンボルトの景観論前史-」大阪市立大学文学部紀要1995年、「景観の『相貌』と『ゲシュタルト』-1920・30年代ドイツにおける景観論の展開」人文地理第42巻第2号1990年、の2つを見つけましたが、そこでは相貌について次のように書かれています。「景観」にはあるまとまりをもった区分され得る地理的個体という意味と、ある風景の相貌に基づく全体印象という2つの側面がある。ここで景観はLandschaft、相貌はPhysiognomieですが、ひょっとしてと調べてみると、植物社会学で言う相観もPhysiognomieで、訳し方が違うだけで同じことですね。
       1920年代の新地理学が相貌に重点をおいて景観「像」を専ら取り上げ、さらに芸術に接近する人も出ていることは興味深く思いました。その中のオプストという人が、セザンヌの画論を引用しつつ、地理学者が景観を体験によってとらえるべきと主張しているとあって驚きました。また、グラネという人が地理的環境を、直接五感のすべてによって知覚しうる近接地(Näbe)あるいは近環境(Nahumgebung)と、観察主体から20~100mを越えた先の視覚のみによって捉えられる景観(Landschaft)あるいは遠環境(Fernumgebung)に分けて考えたというくだりは、塩田先生の景観認識モデルの囲繞景観と眺望景観と同じではないかと思いましたが、これを山野さんは評価し、「『場所』の触覚的な弾力性と、身体が視覚以外の手段で環境を読み取る能力を重視しようとする現代の景観論に対して、有力な示唆を与えるものであろう」と言っていて、非常に興味深く感じました。また、日本の地理学者として小田内通俊を評価しているのも関心ひかれます。小田内は柳田国男や今和次郎とともに内郷村調査に参加している人ですね(日本の民家)。
       山野さんが新地理学の主張を、「没価値的な客観主義・実証主義批判、概念より生き生きとした具体的現象の強調、動態的な景観像の把握、知覚像など『主体から見た景観』への関心、全感覚器官による空間の知覚、美学理論の適用、意味関連としての景観の体験による理解など、今日から見て注目に値する内容を含んでいた」と評価し、こうした視点が最近の景観論とつながると言うは非常に興味深く思います。しかしここでも、どうも山野さんが言っている最近の景観論とは何を指すのか分からない。まだ私の知らないものなら是非読んでみたいものだと思うのですが・・・・。
       渡辺先生、学会で山野先生をお迎えする場をつくっていただけませんか。全国大会でもランドスケープ研究誌上でも、あるいは風景計画研究推進委員会でも良いですが。

  5. 温井先生

    伊藤です。この度は貴重な論考ご発表いただきありがとうございます。

    温井先生の論稿は、アフォーダンスの議論(モノ(形)から情報が発信され、それを主体が受け取る)に近いように感じました。
    平易な言葉でいうと、「見る」のではなく「目を奪われる」こともある、という理解です。

    風景生成において、人間は必ずしも近代的な能動的主体とは限らない、ということをお示しいただいたと感じております。

    今後も色々と教えていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

    1. 伊藤先生、コメントありがとうございます。

       ギブソンについては樋口先生の本の中で名前を知っているだけでしたので、なるほどこういう人なのかとこの機会に初めて知り、アフォーダンスについても初めて知ったという次第です。したがって理解は怪しげなのですが、広瀬直哉という人の「アフォーダンスとエコロジカル・リアリズム」という論考をネットで見つけ、これが私には分かりやすかったので、その助けを借りてお答えしてみたいと思います。
       まず、拙論をアフォーダンスによって語れるかですが、アフォーダンスが「環境が動物に対して提供する意味や価値」と定義されるとすると、確かに画家も動物のうちに入るでしょうが、ギブソンが想定しているのが動物の行動のようなので、果たして絵画という精神的な価値まで含めて考えている概念なのか、計りかねます。ただ、ギブソンによれば、アフォーダンスは網膜像や心像によって仲介されずに直接知覚されることができるというので、それは興味深く思いました。我々が受容する刺激環境自体がすでに構造化されていて、知覚者が推論や記憶などによる心的操作を行う必要はないというのですね。また、知覚者が何かを見るということは、変化のなかから不変項を抽出していることだというのも興味深く感じました。視覚では、移動などで変化する情報を他の感覚による経験で補正する、あるいは我々の視覚がすでにそのようなものとしてあるというのがメルロ=ポンティの主張でしたから、ギブソンと繋がります。
       伊藤先生がおっしゃる「見る」のではなく「目を奪われる」経験とは、我々が風景に感動したり、それを固定化したものとしての絵画のことだと思うのですが、それはデカルト的な対象把握とは確かに異なるように思います。つまり物を三次元の座標の中に置いて、延長という属性で捉えることが「見る」だとすれば、「目を奪われる」にはイコーンの領域の質が入ってくるように思うからです。

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